2019年10月パリ公演(Grand Rex劇場)は、フランスの国民的ロック歌手ジョニー・アリディ(1943-2017)へのオマージュ公演で、プログラムの7割がアリディのレパートリーから。, 2021年4月、パリで新しい形の公演 "SYLVIE, LE RECITAL" (Théâtre Edouard VII 劇場)をする。, 日本の音楽シーンにおいては、100万枚以上を売上げた「アイドルを探せ」、「悲しみの兵士」、「あなたのとりこ」、「哀しみのシンフォニー 」、「想い出のマリッツァ」、「愛の経験」、「アブラカダブラ」、「愛のかたち」、「ディスコ・クイーン」、「初恋のニコラ」等、1965年から1970年代に多くのヒットを放った。1965年5月、20歳の時に初来日。1970年代は北海道から沖縄まで過密日程にて3、4週間に亘る全国ツアーを行った。この時期、RCAは横断幕を持って羽田空港で出迎えた。70年代の長期全国公演ツアーの黄金期を経て現在までコンスタントに来日公演を開催している。, 公演やイヴェントのため2018年迄に20回以上来日している。初来日の1965年から1980年代前半迄は来日中に人気音楽番組にゲスト出演し歌った。, 1965年5月、20歳の時に初来日した機会に制作された婦人服製造卸・レナウンの「ワンサカ娘」のTVCMで、1万ドル(当時のレートで360万円)のギャラで歌った[35]。CMソングとしてヒットした。「ドライブウエイ、プールサイド、テニスコート、ロープウエイ」などの英語の歌詞で「イエイエ」が連呼されたこの歌は、1961年に小林亜星が作曲した。シルヴィの他に複数の日本人歌手が歌い、「1965年から1966年がシルヴィ・ヴァルタンだった」「6年間も歌い継がれ、この頃が絶頂だった」と評された[36]。, 原題:Irrésistiblement 2015年は2月から2013年に続いてナッシュヴィルでアルバム制作に入る。[29][30] 4月にパリ・オランピア劇場公演。2013年発表のナッシュヴィル録音アルバムを中心に、自身の往年の名曲やファン達が熱望してきた1977年アルバム収録曲(初披露)やナッシュヴィルで制作中の新譜収録予定の真新しいロック・ナンバーまで、安定したパワフルな歌声とリズムで音楽のジャンルを超えたアーティストであることを改めて強く印象に残した公演。翌日の仏紙 LE FIGARO が報じた通り "幕間なし" で約30曲をエネルギッシュに演じた。国営TV局F2もその公演模様をリポートした。9月から4ヶ月間パリの劇場[31]にて演劇[32]初主演。コメディ作品で定評のあるイザベル・メルゴー(映画監督・脚本家・女優)との共演でチケット・セールスの上位を占める。11月にステージ・キャリア半世紀を超えるシルヴィ・ヴァルタンを彼女のモードで辿る写真集 「Le Style Vartan」刊行、また 新作アルバム 「Une Vie en Musique」 発表。本作は7月に録音したレパートリーの再録で、シルヴィに由縁のある街、ソフィア、パリ、ロサンゼルスに因んだ全16曲を収録。同時期、1961年から1986年RCA時代シングル盤レプリカ復刻CD全集(コレクション・ボックス)が発売される。多方面で大活躍の年となる。, 2016年4月、約一世紀を生きた敬愛する母親(2007年逝去)の回想本を刊行。秋から2017年春まで2015年に好評だった主演コメディ演劇のフランス国内巡演。 シルヴィーさんは地元、静岡県で真面目な学生時代を過ごされたようです。 パチンコを打つようになってから、早い段階でパチンコで生計を立てていく決意をしますが静岡県よりホールが沢山ある東京のほうが勝負できる可能性が高いと考え上京。 パチンコ始めた頃から勝ち組の思考をされていたのでしょう。 上京しばかりの頃はパチンコの軍資金を稼ぐ為、ガッツリ水商売(キャバクラ)していたらしく夜もかなり遊び回っていたみたいですよ。(キャバ嬢経験がありますが、お酒は殆ど飲めないとの … Live À La Salle Pleyel - The 50th Anniversary Concert, 1961年 17歳を迎える年の春、RCA音楽プロデューサーの兄エディ・ヴァルタンに懇願され代役で初レコーディング。11月RCAと契約, 1963年3月 初渡米、アルバム「Sylvie à Nashville」をナッシュヴィルRCA本拠地にてレコーディング, 1964年 「La plus belle pour aller danser(邦題:, 1970年2月 2度目の自動車事故に遭う、9月にオランピア劇場公演、「悲しみの兵士 / Les hommes qui n'ont plus rien à perdre」日本で大ヒット, 1975年 パレ・デ・コングレ初公演、イタリアTVシリーズ・ショウ番組主演「Punto e Basta」, 1979年 アルバム「I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)」全曲英語盤発売, 1985年 アルバム「Made in USA」(日本盤:ダブル・エクスポジャー)全曲英語盤発売, 1990年10月 ブルガリア・ソフィア初公演、12月に人道支援団体「Sylvie Vartan pour la Bulgarie」をブルガリア赤十字社の下に設立, 1994年11月 映画主演 「L'Ange Noir(黒衣の天使)」(邦題「甘い媚薬」)公開, 1998年 フランスTV「Irrésistiblement Sylvie」高視聴率獲得、CD発売される, 2004年 パレ・デ・コングレ公演、自叙伝『Entre l'ombre et la lumière(影と光の間で)』が30万部のベストセラー、パリ・ガリエラ美術館が衣裳展「Sylvie Vartan, revue de mode」を4ヶ月間開催, 2011年11月 サル・プレイエルにてステージ・キャリア50周年記念特別公演、フランス芸術文化最高勲章を授与される, 2013年10月 アルバム「Sylvie in Nashville」発売(2013年5月ナッシュヴィル録音), 2015年9月 演劇初主演「Ne me regardez pas comme ca」, 2018年 パリ追加公演、国内外ツアー (日本公演(大阪: 5/31 東京: 6/1), 2021年4月 パリ公演 "SYLVIE, LE RECITAL" (Théâtre Edouard VII 劇場), 1965年5月世界ツアーの一環で初来日し羽田空港には千人ものファンが殺到した。シルヴィは回想録(2004年フランス発売の自叙伝)の中で、フランスから遠い極東の国での成功・空港で制服姿の学生達が小さな旗を振って大歓迎する光景を見て驚いたと記している。当時の日本はまだ観光で訪れる人があまりいなかった時代でまた遠かったこともあり、アンカレッジ経由の飛行機の中はほとんどシルヴィ・ヴァルタン一行の貸切状態だった。羽田空港に到着直後には歓迎の横断幕「Bienvenue!! (* Music written by David Hallyday, singer songwriter), ※注:フランス盤と日本盤では 収録曲目が異なる場合があります。日本盤は発売時期も遅れています。, 収録:1975/10/4〜11/4,1976/2/20〜2/29 パレ・デ・コングレ・ド・パリ, 収録:1977/10/7〜11/9,1978/3/20〜4/2 パレ・デ・コングレ・ド・パリ, 収録:1990/10/6 Palais de la Culture de Sofia SYLVIE VARTAN」をバックにVictorレコード会社開催の記者会見に兄エディを伴って出席。エディ・ヴァルタン・オーケストラと共に約3週間の日本全国ツアーを行う。  (1995年発売「RCAスタジオ録音全集1961-1986」のブックレットに来日時の写真が1枚載っている、街中の人力車の上で女子高生に取囲まれて彼女等が満面の笑みで一斉に差しだす紙に嬉しそうにサインしている姿だ。20歳のシルヴィは公演の合間にショッピングを楽しみ、青山辺りで買った麻の仕立ての良い女の子のワンピースを大変に気に入っていたようで約40年間も大事にキープしていた。というのも、フランスや日本の雑誌インタヴューの中で2004年頃に一人娘のダリナ(当時7歳)に初めて着せたと話している), 1978年は前年秋の壮大なパリ公演を持って更に華麗でダイナミックなダンスシーンを披露した。(2012年フランスRCAが発売するオリジナル41作品リマスター・レプリカ復刻限定盤CD全集「The Ultimate Collection」に1971年と73年日本公演ライヴ盤が初CD化され日本語曲5作がボーナストラックで収録される。), 1992年6月、前年1月のパリ・パレ・デ・スポール公演を持って来日し2週間の日本全国ツアー。新譜「, 1995年6月には(2月のパリ公演後に)横浜フランス映画祭に主演作「L'Ange Noir(黒衣の天使)」(邦題:甘い媚薬)を持って団長として来日。, 2000年に入って、2005年と2008年にパリ・パレ・デ・コングレ公演を持って東京公演、新譜「, 2010年11月に2年ぶりに来日、在日フランス商工会議所の年次イヴェント・ガラ (GALA2010) に招待されてANAインターコンチネンタル・ホテルにて特別コンサートをする。フランス発売目前の最新ポップ・アルバム「Soleil Bleu(青い太陽)」から同名の新曲「Soleil Bleu」を作者の若きシンガー・ソングライターのジュリアン・ドレ (Julien Dore) とデュエット初披露した。, 2013年2月7日から11日にビルボード・ライヴ東京・大阪公演。65年のTVCM曲「ワンサカ娘」も披露し全15曲。最新盤から「Sous ordonnance des étoiles」(デュエット曲)や「Mon enfance」などクラシック・シャンソンも4曲、アンコールはブレルの「Quand on a que l'amour(愛しかない時)」。「そこにシルヴィの強烈な個性が塗り込められ、ステージには、現在進行形の世界レベルの「歌」が立ち上がった。「流行」を消費せず、「文化」にまで高めるお国柄に脱帽。」「デュエット曲では、アルチュール H(アッシュ)の録音と共演。芸歴50年以上にして進化を続ける姿をみせつける。」, 2014年4月16日から19日に日本発売されたばかりの新譜「シルヴィ・イン・ナッシュビル」を持ってビルボード・ライヴ東京・大阪公演。ロックな新作から8曲と「Let it be me (Je t'appartiens)」(ジルベール・ベコー)含む全15曲にフィナーレはヒット曲4曲のメドレー。滞在中のラジオ・インタヴュー, 2018年5月末からの日本公演直前の5月29日、NHK夜の生放送の歌番組「歌のコンシェルジュ」に出演し、「アイドルを探せ」「あなたのとりこ」の2曲を披露。, 1999年6月1日から6日(東京・六本木スイート・ベイジル - 毎夜2回公演/全12公演), 2005年3月28日から30日(3回公演、東京・渋谷Bunkamuraオーチャード・ホール), 2008年3月26日から27日(3回公演、東京・渋谷Bunkamuraオーチャード・ホール), 2010年11月15日(ANAインターコンチネンタル・ホテル、在日フランス商工会議所GALA2010にて特別コンサート), 2013年2月7日から9日/11日(Billboard Live 東京/大阪 - 毎夜2回公演/全8公演), 2014年4月16日、18日/19日(Billboard Live 大阪/東京 - 毎夜2回公演/全6公演), 2018年5月31日、6月1日(NHK大阪ホール/東京・渋谷Bunkamuraオーチャード・ホール), 1991年1月11日 テレビ東京「音楽マイ・ラブ 〜 世界のトーク&ミュージック」(Music My Love) はパリ16区にあるシルヴィの自宅でのインタビューを放映。「あなたのとりこ」が流れシャンゼリゼ大通りそしてシルヴィの白い邸宅と映像で始まる。「Double Exposure (Made in USA)」から「If you walk away」と1989年アルバム「Confidanses(バルタン気質)」から「ロンドンに雨が降る」のビデオ・クリップが流れる。このインタヴューは前年1990年9月末に収録されたらしく、番組の中でシルヴィは「来週ブルガリア・ソフィアで初公演をします」と興奮気味に話している(ちなみにソフィア公演は10月6日開催)。また時代を超えて第一線でいるのは日々の努力かと聞かれ「この職業はサイクルが早いから努力していたら大変です。努力ではなくて、情熱です。」「アーティストは好きだからやっているのです」また、「アメリカのアーティストのプロ精神は尊敬しています」「各国のセンスィビリティを少しずつ吸収しているのかもしれません。そういう風にしてより完璧なアーティストになれるのだと思います。」, 1995年6月 横浜フランス映画祭に主演作を持って来日の折、NHKのTVフランス語講座のインタヴューに応じる。本業についても聞かれて「(2月に)カジノ・ド・パリ公演を終えたばかりなので、来年、日本公演ツアーが出来ればと願っております。」, 2005年3月 「ザ・ワイド」のインタヴューに応じ、番組中に例の「バルタン星人」人形をプレセントされ笑顔ながら戸惑う。, 2008年3月6日 BS-iの音楽番組「Song To Soul」ー「永遠の一曲」で名曲「アイドルを探せ」(1963年19歳のアメリカ録音アルバム『Sylvie à Nashville(夢のアイドル)』収録曲)にまつわるエピソードを関係者等が語る。2008年3月末の来日公演を前に、2月パレ・デ・コングレ公演の真っただ中にパリで行われたシルヴィ・ヴァルタン本人とのインタビューと公演でこの一曲を歌う場面も放映。, 2011年7月26日 ニューヨークのフジテレビ「トゥデイズEye」で7月26・27日のニューヨーク初公演のため現地入りしたシルヴィのインタヴューを放映。4月パリで行われた東日本大震災被災者支援チャリティー・コンサート出演の際に購入したという胸に小さな日の丸そして白で希望と刺繍されたネービーブルーのポロにコンバースの真っ白なバスケット・シューズ姿で出演。, 2014年5月15日から5月27日 衛星放送Music Air 「Ma Headlines」で4月来日公演中に行ったシルヴィ・ヴァルタンのインタヴューを放映。, 2018年5月29日 NHK夜の生放送の歌番組「歌のコンシェルジュ」に出演。「アイドルを探せ」、そして「あなたのとりこ」を披露し "Irresistiblement" はファルセットを歌った。, 1990.11: Sylvie en Bulgarie (F2報道番組Envoye Special / ブルガリア初帰国リポート), 1994.11: Sylvie Sa Vie (Canal+ / ポートレート・インタヴュー番組), 1998.10: Irréistiblement SYLVIE (F2 / 音楽番組), 2000.3: Qu'est-ce qui fait rêver Sylvie ? 出身地 : フランス/パリ. 1998年の「Irrésistiblement SYLVIE」 は高視聴率を獲得してCD化され日本でも発売された。, フランス語の他、英語、イタリア語、スペイン語、ブルガリア語と5カ国語に堪能。日本語を勉強していた時期もあるという, 1965年から1970年まで「Création Sylvie Vartan」と称したプレタポルテ・コレクションを発表。『ELLE』誌の表紙を飾り毎回紹介される。ヴィクトル・ユーゴ通り (Avenue Victor-Hugo) にパリ第1号ブティックを開き、フランスに他3店舗とベルギーにも出店。(2015年11月フランスで出版(MARTINIERE BL)されたモード写真集「LE STYLE VARTAN」にパリのブティックの写真が掲載されている。) 本コレクションに加え、シルヴィは特に1960年から1970年代、長い手足・華奢なシルエットが注目され、『ELLE』や『Vogue』誌上において、YSLなどクチュリエ製作のオートクチュール(ジャンプ・スーツからミニやドレスまで、様々なファッション)に身を包み、ヘルムート・ニュートンなどの撮影に応じた。, 日本では、1965年5月(20歳)の初来日時の写真の一つに「西武シルヴィ・・・協賛東洋レーヨン」のボードをバックに記者会見をするシルヴィの姿があるが、西武百貨店にシルヴィのモード・コーナーがオープンするほどの人気ぶりが伺える。, 2004年10月16日から2005年2月27日迄4ヶ月間、ガリエラ美術館(パリ市モード博物館)にて「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタン モードの遍歴)」展が開催された。そうした経歴から、インタビューでモードについて質問を受けるが、「(キャリア上)自分のスタイルを作り上げるといったことに構ったことはない」、「もちろん関心はあるが、私はファッションの奴隷ではない。いつも自分の好きなものを身につける」と答えている。, 1980年代にフランスでダンス・スクールを開いていた。1984年4月、東京銀座に百貨店プランタンが進出した際に、最上階に同名のダンス・スタジオをオープン。フランスのスタジオ閉鎖と共に東京校も閉鎖。シルヴィ・ヴァルタンは1970年からアメリカにも暮らし始めるが、以来2004年迄のショウ振り付け師は全てアメリカ人を起用した。1970年代は振り付け師と共にラスベガスなどでほとんどのショウを見たという。, シルヴィが自分の分身といい両手を広げて信頼する夫。1981年3月に第10回東京音楽祭の席で出会い3年後の1984年6月にロサンゼルスで再婚。トニー・スコッティは東京音楽祭の審査員として常連で1980年から1986年まで務め、シルヴィは1981年と1983年から1986年まで審査員やプレゼンターとして招待されている。トニーはアメリカ東海岸ニュー・ジャージー州出身。大学卒業後、西海岸ロサンゼルスに移り俳優・歌手としてスタートするが、間もなく兄弟3人で会社設立、音楽・映画プロデューサーとして成功している。シルヴィはTVや雑誌インタヴューでトニーについて訊かれる毎に笑顔でこう表現する「トニーのような男性に出会うのは難しい、彼は突然私の目の前に現れ大きな扉から入ってきた『un oiseau rare(珍鳥)』、私はもう戸に鍵を閉めてしまいました!」, 1965年、医学生だったジャン・リュック・アズレはシルヴィの熱狂的ファンとなりファン・クラブを作って初代代表となる。1968年にシルヴィの秘書兼マネジャーのカルロスがシルヴィと一緒に歌い始めてタレントになると大学を中途退学してその役目を引き継ぐ。シルヴィのアメリカ暮らしが益々頻繁になる1976年迄シルヴィに従って日本を含め世界中を巡演した。後にプロダクションを設立、現在はフランス最大オーディオ・ヴィジュアル企業の一つで多数の関連会社を持つ。2004年に初めてシルヴィ・ヴァルタンのショウをプロデュースし2005年の日本公演にも同行。アズレは、シルヴィの下でショウ・ビジネスについて学んだと話している。, 1967年から7年間シルヴィの音楽制作主要ブレーンの一人ジャン・ルナール。2011年シルヴィのステージ・キャリア50周年記念パリ公演に姿を見せた。1967年知人から人気歌手に曲を提供する事を薦められ当初ジョニー・アリディへの曲を持ってジョニーも来るはずだった新譜録音中のシルヴィがいるスタジオを夜訪れる。シルヴはジョニーは来られないため替って自分が聴いて彼に話しても良いと言う。ルナールはピアノに向かったが自分で歌い出す、終わって見るとシルヴィは白い顔をして泣いていた。再演を促されるが途中シルヴィは「この曲は私の方に向いている!」と言い出して遮る。その翌日にシルヴィの音楽ディレクターの仕事を提示される。[41] 作詞:ジョルジュ・アベールGeorges Aber、作曲:ジャン・ルナールJean Renard。 純粋にパチンコだけで利益が出ているのかどうかよく分かりませんが、“勝つことを目的”としているからにはそれなりに儲かっているのかもしれませんね。, とは言え、パチンコライターとして、情報誌や新聞でのパチンコ関連のコラムの連載や、パチンコ情報番組への出演も大きな収入源となっているようです。, 年収については公表されてはいませんので、あくまでも予想となってしまいますが1000万円は下らないのではないかと。, 1000万円もの収入を自分の為だけに好きなように使えるならば、もしかするとシルヴィーさんには結婚願望が無くなってしまっているのかもしれませんね。, 女優・北川景子さんに似ていると言われているポコ美さん、ライター随一の美人とも言われるヒラヤマンさんなど、パチンコライター界には現在、人気の美人ライターが数多く存在しています。, シルヴィーさんもそのうちの1人で、控えめで常に謙虚な姿勢も人気の理由となっているようですよ。, また、シルヴィーさんは帽子好きということでも有名で、ブランドにこだわりはないそうですが、いろいろな帽子を集めているそうですよ。. 2018年3月16日と4月14日にグラン・レックス劇場で追加公演。同月はブルガリアの2都市で、それぞれ4,000人の観客を前に熱唱し、相変わらず一段と心温かい拍手喝采を受ける。5/30と6/1に4年ぶりに日本公演。シルヴィ・ヴァルタンは常にフランス公演と同じ名ミュージシャンや舞台照明の第一人者を伴って来日するが、今回も同様で、彼等とロック色濃い正味2時間30分(幕間20分含む3時間)のライヴで37曲を演じた。10月から12月にフランス国内及びベルギーでコンサート・ツアーをする。 /アイドルを探せ/悲しき雨音/愛のきずな/恋のとりこ John B」(「Sloop John B」)、「Etrangere」他)から成る英語1曲含む全13曲。コレクター限定版には別に2曲収録。バイオグラフィー的な歌詞を持つナンバーも多い。新譜発売を控え、10月6日フランス国営放送F2のニュース番組に独占ゲストで出演、キャリア50周年を経てなお新譜制作・コンサート・映画出演とそれは全て進展するばかりだとのコメントで迎えられた。≪フランス語は響きが美しい文学的な言語、ただ私が好むリズム、アップ・テンポの音楽に合わせるのは・・・≫とその難しさにも触れた。10月14日、新譜リリース同夜に新譜独占披露コンサート、ショーケースをテアトル・ドゥ・パリThéâtre de Parisで開催。「ここ数年方向を模索しているように見えただけに歓迎すべき中軸の置き直しを行った。失っていた活力を取り戻している。シルヴィ・ヴァルタンが歌うカントリーは快い熱狂だ。彼女の人気によってフランスの大衆が持つカントリー音楽への頑固な誤解(カウボーイとバンジョーといった固定観念)が消えることを願う。」同日付Le FIGARO紙[19]。別インタヴュー[20]で ≪約10年ほど(2004年以降)歌詞を優先したむしろリサイタル的コンサートを行って来たその末に今はリズムを当初のようなロックを求めた≫ ≪たとえ新譜制作をしなくても公演をやれる、私はそのアイディアで溢れているから。例えば1970年オランピア劇場公演がそうだったように。≫ またLe Monde紙は[21]「愛するものに忠実である、アメリカはエルドラド理想郷のままあるアルバムを出した。42枚目のスタジオ録音盤だ。エレクトリック・ギター、2拍子テンポ、十代の表情、カントリーのバイオリンを添えるといった60年代のリラックスしたロックの秘法に基づいて堂々と主張している。時は過ぎる幻想は長く続く。これらフランスとアメリカの出会いは教えるものがある、魂(精神)はアメリカ人で心(感情)はフランス人である。」「シルヴィは間違いなく本物の若き女性だ、2014年2月のフォリー・ベルジェール公演を約束する。」, 2014年2月中旬に「SYLVIE IN NASHVILLE」を持ってパリ・フォリー・ベルジェール(Folies Bergere)にて新しい躍動感溢れるコンサート(公演名 "Sylvie à la folie")を開催。"folie"は英語の"crazy"の類義語。幕間なしで(新譜とコレクター限定盤収録曲全15曲中)新曲14曲を含めて25曲以上を歌った。"Nos retrouvailles" (私たちの再会)で幕開け、アンコールも新譜から陽気なアメリカ娘といえる "Sandy" でソワレは頂点に達し会場は狂喜と熱狂の渦と化した。凝った舞台演出はなく音楽100%の新しいステージ。本番前2月8日のアヴァン・プルミエ(試演)について12日付Le Figaro紙は従来公演の定番であった往年のヒット曲を一つも歌わなかった事に触れて ≪彼女はあえてリスクを冒した≫ と会場にいたシルヴィの友人の一人である映画プロデューサーの称賛の言葉を載せ、又 「ナッシュヴィルはシルヴィ・ヴァルタンに感謝すべき」と書いた。 戸田恵梨香さんと成田凌さんが乗る車が、張り込みをしていたフライデーの車に接触事故を起こしたそうです!! /私の遺言/夢の小鳥/愛のきずな/ある夜二人は/太陽のパラダイス/私はキッド/男の子のように(英語)/ベイビー・カポネ, 想い出のマリッツァ/もうちょっとだけ/太陽をかくした/きれいな人形/あなたのとりこ/男は必要なもの/太陽に向かって/二隻の船/彼は帰ってくる/沈黙/金の葉, 恋人時代(日本語)/たくさんの愛とすこしの忍耐/わたしの小さな影/女の時間(日本語)/狼/あなたの名前/愛のフーガ/他, La Moitie Du Chemin (※日本盤は「哀しみのシンフォニー」に差替)/スーザン/愛に生きるわたし/メディシン・マン/伐り倒された木のように/一握りのお金/君の友だち/カリフォルニア/アナベル/あなたのことを教えて/ディリンダム/いつか会う日まで, ジーグフェルド・フォリーズ/ドゥリドゥリダム/ふたりの小さな娘たち/絵の具の色/ローレルとハーディ/インディアナ/ベビー・カポネ/バブル・バブル/兵士たち/パリ・シルヴィー/スワニーのために, サバの女王/恋はみずいろ/愛の讃歌/枯葉/別れの朝/風のささやき/愛の休日/ロックン・ロール・マン/行かないで/バン・バン/ダドゥ・ロン・ロン/ケ・サラ, 愛のひとりごと/愛の小舟/神様の贈り物/私の楽園/あなたの瞳に/幸せ/スウィング・タイム/あなたがいれば/素敵な恋人/スーベニール(思い出)/あなたとの明日, アメリカン・ナイト/プリーズ・ステイ/イージーラブ/はるかな渚/愛のやすらぎ/ピュアー・ラブ/くよくよしないで/キープ・オン・ロッキン/踊ろう、恋のリズム/ホット・タイム・トゥナイト プロデューサー=デニー・ディアンテ (全曲英語), セ・ファタル/それは当然…/ロンドンに雨が降る/美男のカメラマン/ヴィヴァ/ボルドー〜サンフランシスコ/待っていた人/穏やかなブルー/時を追いかけて/セ・ファタル (マキシ・ヴァージョン), 悲しき慕情/おセンチな17才/スループ・ジョンB. 年にステージ・キャリア60周年を迎える。1984年からアメリカ在住(ロサンゼルスとパリ半々の生活を送る)。日本の特撮ドラマであるウルトラマンに登場するバルタン星人の名前の由来にもなった人物である。, フランス音楽界に17歳でデビューし当初はアメリカン・ロックのフランス語カバーを歌いハスキー・ヴォイスと容姿やファッションで一躍若者のアイドルとなる。1963年19歳で初渡米。アメリカ・ナッシュヴィルのRCA本拠地で国内外で大ヒットとなる「La plus belle pour aller danser(踊りに行く一番の美人)」(邦題「アイドルを探せ」)収録のアルバム第3作「Sylvie à Nashville」をエルヴィス・プレスリーのオーケストラやコーラスと共に直接同時録音。又1965年まで憧れていたニューヨークを頻繁に訪れ有名TV番組に出演する。1965年5月初来日。前月4月に20歳で21歳のロック歌手ジョニー・アリディと結婚 - アイドル同士の結婚はファンのイメージを壊すとのマネージャーの忠告に [1] 《アイドルという職業はない》 と反論。音楽レパートリーはロックからジャズやバラードまで広くダイナミックな公演活動をするエンターテイナー。1970年からニューヨークやロサンゼルスでダンスに励み2004年迄はアクロバットなタンゴから空中ダンスやタップダンス含め様々なダンス・シーンを織り交ぜた豪華絢爛スペクタクルを興行。デビュー以来、現在までコンスタントに新譜を発表し新譜をテーマにコンサート活動を繰り広げている。1960年代デビューのスター歌手の中で稀有な存在である。2013年は50年ぶりにキャリアの原点であるナッシュヴィルに戻りCountry Rockをテーマに新譜「SYLVIE IN NASHVILLE」を録音。, 1944年8月15日 ブルガリア・ソフィア近郊、ソフィア州スヴォゲ市イスクレツ (Iskrets)[2]にある産院)で誕生。1952年に家族でフランス・パリへ移住。ソフィアのフランス大使館プレス担当だったフランス国籍(フランス東部アルザス地方生まれ)のブルガリア人の父親と、ハンガリー人の母親を持つ。母親は、ハンガリー・ブダペストで今も残る壮大な教会堂を手掛けた著名な建築家の娘で、父親が第一次世界大戦直後にブルガリア当局から首都ソフィア復興のために請願されて一家でソフィアに移住した。ソフィアでフランス系電気会社を経営していたシルヴィの祖父と父親は共にフランス生まれで、父親はソフィアのフランス語学校で教育を受けている。2人共フランス語に堪能でその文化に傾倒していたことからシルヴィはその影響下で幼少時代を過ごした。父親は多才で、オペラを愛しピアノを弾き作曲をし絵も描いたが、プロの彫刻家であったことから、政府の要請[3]でスターリンとゲオルギ・ディミトロフ(第二次世界大戦後成立したブルガリア人民共和国の初代首相)一緒のブロンズ像を制作している。1952年12月にビザを入手し共産体制へ変ったブルガリアからフランスへ両親と兄と家族4人でフランス・パリに亡命した。ちなみに、Sylvie Vartanの名について、アルメニア人の名字である「バルタニヤン」であるとする巷の一認識がある。しかし本人は自伝やインタヴューで≪祖父のルーツがアルメニアに遡るが家族の姓はVartan≫[4]と語り、Sylvie Vartanは本名(出生名)であると明言。, シルヴィは祖父・父親・兄がピアノなど楽器演奏もする芸術一家に育ち、演劇学校進学とコメディ・フランセーズを夢見ていた。7歳年上の兄エディ・ヴァルタン(Eddie Vartan、2001年死去)はジャズ・トランペッター(当初ブルーノートで演奏していた)、ジャズ・バンドを持つ音楽家、かつRCAの音楽プロデューサーでもあった。1961年春、エディが担当したデュエット・レコード制作で、録音途中に突然降板したイギリス人女優の代役に立ったのがシルヴィの歌手デビューとなった。曲目は前任者の高音の声質を真似てハミングしたコミカルな歌「Panne d'essence(ガス欠)」(Floyd RobinsonのOut of gas)であった。土壇場での交代劇だったために6月発売されたレコード・ジャケットには男性歌手フランキー・ジョルダン (Frankie Jordan) のみ写っている。ジョルダンも当時は歯科学生でロックに夢中なあまり趣味で歌いピアノを弾いていた。, 偶然参加したシルヴィには滑稽極まりない作品に見えたこの歌は意外なヒットとなり同年12月にジルベール・ベコーのパリ・オランピア劇場公演第一部に相手役のジョルダンと招待されて初めて観客の前で歌う。この一寸の出演は伝説のオランピア劇場支配人ブリュノ・コカトリックス (Bruno Coquatrix) の目に止まり、数週間後のヴァンス・テイラー (Vince Taylor) 公演の第一部出演を依頼される。この公演にシルヴィは初めてステージ衣装を作って臨み「Quand le film est triste(Sad movie makes me cry、悲しきスクリーン)」等を歌う。1962年5月ベコーの国内ツアーに参加するが、娘の芸能界入りに特に猛反対だったシルヴィの母は巡演に出るには兄エディの付添いを条件とした。「悲しきスクリーン」 を録音した時の事を先の「ガス欠」のソングライターでもあるジョルジュ・アルベ (Georges Arber) は「シルヴィには既に彼女特有の歌い方があった。その時に私は彼女は成功すると分かった。とにかく彼女はその可能性を持っていた」[5], 音楽的嗜好はジャズ音楽家の兄エディの影響で、十代のデビュー前、カウント・ベイシー、 マイルス・デイヴィス、オスカー・ピーターソンなどのオランピア劇場公演を兄と一緒に鑑賞。また エラ・フィッツジェラルド、モダン・ジャズ・カルテットなどを聴く。ジャズ・ロックンロール・R&Bなどアメリカ音楽に魅了され、思春期に好んで聴いたのは: エルヴィス・プレスリー、レイ・チャールズ、ビル・ヘイリー、リトル・リチャード、ブレンダ・リー。舞台俳優を夢見ていた文学少女のリセエンヌはこうして奇妙にも歌手の道を辿る。1970年代に入るとフランスはシルヴィ・ヴァルタンをそのショウアップされたエネルギッシュなステージぶりから「show-woman américaine(アメリカ的Show-woman)」と形容するようになる。スタジオ活動よりライヴ・ステージ志向が強いのはこの当初の舞台俳優への志が源となっている。デビュー当時は常に作曲家の兄エディ率いるエディ・ヴァルタン・オーケストラが同行して妹シルヴィを支えた。, 1963年「Tous mes copains(邦題:おセンチな17才)」が最初の大ヒットとなる。同年6月、伝説の音楽雑誌『サリュ・レ・コパン (Salut les copains)』の1周年記念で開催したパリ・ナシオン広場コンサートに15万人の若者が集まりシルヴィ達「若者のアイドル」に熱狂する。「サリュ・レ・コパン」は1959年にジャズ・写真・芸術の熱狂的ファンでアメリカの最新音楽に精通するダニエル・フィリパキ(Daniel Filipacchi、後のアシェット・フィリパキ・メディア社長)とフランク・テノ(Frank Ténot、ジャズ評論家)がラジオEurope1で始めた伝説の人気ロック音楽番組「サリュ・レ・コパン」の成功によりその延長で出版まで及んだもの。シルヴィの兄でジャズ・トランペッターのエディ・ヴァルタンとこの二人を結びつけたのもジャズである。フィリパキは16歳年下のシルヴィをデビュー時に小さな妹のように可愛がった。シルヴィはこの1963年から1965年は頻繁にアメリカ・ニューヨークを訪れる。1963年9月、19歳を迎えて間もなく第3作目アルバム「Sylvie à Nashville/日本盤:夢のアイドル」をRCA本拠地ナッシュヴィルで録音。その際に先ずニューヨークへ行くがサリュ・レ・コパン誌は写真入りでこの模様を報道。翌1964年5月の訪問ではTime誌のインタヴューや他の雑誌撮影そしてCBSの人気番組ジョニー・カーソン「トゥナイト・ショウ」の歌の録画等の他にRCA側のディナー出席等で過密スケジュールであった。同年11月にまた3週間滞在し英語盤アルバム「Gift wrapped from Paris」(日本盤:パリからの贈り物)を録音。翌1965年3月中旬はNBCのポール・アンカの番組に出演し、また「トゥナイト・ショウ」に2度目の出演をする。, 1964年、「La plus belle pour aller danser(踊りに行く一番の美人)」(邦題:アイドルを探せ)等の大ヒットにより4回目のパリ・オランピア劇場公演が1964年1月16日から2月5日迄行われる。これはビートルズとアメリカのトリニ・ロペズ (Trini Lopez) との共演。当時のビートルズは人気沸騰前で、観客を動員したのはトリニ・ロペズとシルヴィであった。同年フランス映画「Cherchez l'idole(アイドルを探せ)」に出演、主題歌となった「La plus belle pour aller danser」(邦題は映画タイトルと同じ「アイドルを探せ」)を歌い、ハスキー・ヴォイスと容貌でスターとなる。ジョルジュ・ガルヴァレンズ (Georges Garvarentz) とシャルル・アズナヴールの作品で、19歳を迎えたシルヴィがナッシュビルのRCA本拠地で名ギタリストのチェット・アトキンスChet Atkins指揮の下でエルヴィス・プレスリーのミュージシャンやコーラスと直接同時録音したLP「Sylvie à Nashville」収録曲。, アルバム「Sylvie à Nashville」は、英語曲3作を含み、スウェーデン・トルコ・ペルー等も含めて世界的に広くリリースされる。フランスでは長期間に亘り大ヒットし商業的にも大成功となる。シングル・カットされた 「Si je chante」(恋のショック) そして日本でも長期間トップとなった「La plus belle pour aller danser」(邦題:アイドルを探せ)は其々売上第一位にランクされる。本アルバムはシルヴィ本人にとり、その後のキャリアの上で重要な一作だという[6]。この19歳の初渡米でニューヨークでTV出演も行い、滞在中に見た「一つの文化であると同時に厳しいビジネスでもある尊重されたアーティストの存在」に衝撃を受けた。「ニューヨークしか夢見ていなかった」シルヴィに「ニューヨークはアメリカを発見させてくれた」。当時フランスは、アメリカン・ロックのカバー曲を歌うシルヴィ達ティーン世代の振興音楽を「Yéyé(イエ・イエ)」と揶揄し一まとめに括って中味も才能もない歌手のように捉え、アメリカとはメンタル的に雲泥の差があった時代。若く好奇心旺盛なシルヴィは「仕事に対する考え方とやり方において高水準を求める気難しさや厳格さやインスピレーションなど多くを学んだ」。2000年代に入ってフランス雑誌のインタヴューで「アメリカは其々の時代とても進歩している。その音楽も時代を感じさせない。」と語っている。, 黄金の60年代の若者達の「Yéyé(アメリカン・ロック)」への過激な熱狂について、1980年末12月28日にTF1のインタヴュー番組「Nouveau rendez-vous」に独占出演したシルヴィ・ヴァルタンは、彼女のキャリアを映像で辿る中、同年代の歌手仲間で友人の一人でもあるフランソワーズ・アルディを途中ゲストに迎え2人は肯定的に答えている。シルヴィ「私達は冷静で本心から歌っていた」、フランソワーズ「その通り。アメリカやイギリスの影響を受けたりコピーしたりで真のオリジナリティーを欠いたかもしれないが、屈託ない私達はとにかくその音楽に夢中で17歳の年齢なりに直向きだった, 1965年4月12日、人気絶頂期の20歳で、21歳の若きフランス国民的ロッカーであるジョニー・アリディと結婚。翌1966年8月14日に一人息子で現在はシンガー・ソングライターのダヴィド・アリディ」(David Hallyday)が誕生する。同年に全曲英語アルバム「Gift wrapped from Paris」アメリカ発売。挙式後の5月に世界ツアーの一環で初来日し羽田空港には大勢のファンが殺到した。, 1965年世界ツアーのため兄エディはイギリスで気鋭のミュージシャン2人をスカウト。ドラマーのトミー・ブラウン (Tommy Brown) とギタリストのミッキー・ジョーンズで、彼等は1964年から1970年代半ば迄シルヴィに斬新な曲を多く作り主要ブレーンとなる。1960年代から1970年代シルヴィと共に世界ツアーをする。1968年「Face au soleil(太陽に向かって)」、1971年「Suzan」「Annabel」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」、1974年「Rock'n'roll man」等。シルヴィは同様のポップ路線を続けなかった理由について、「彼等イギリス人のような才能あるソングライターに以来出会った事がないからです」と話している[7]。ジョーンズは後にグループ「フォリナー」を結成した。, 1968年4月に自動車事故に遭い左腕を骨折するが7月に「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」、「Baby Capone(ベイビー・カポネ)」が大ヒットし12月にアルバム「La Maritza(想い出のマリッヅア)」(日本盤は「パリの妖精」)から「想い出のマリッザア」など新曲7曲を含めたプログラムで1週間のオランピア公演凱旋。年内及び翌1969年は2度の世界ツアーに出て、夏の60日長期ツアーではオランダを含め欧州から南米や北アフリカを巡る。「Ballade pour une fugue(愛のフーガ)」のビデオ・クリップをテレビ放映、11月にシングル「Abracadabra(アブラカダブラ)」発売。, 「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」製作時について、シルヴィの重要なブレーンの一人で「Irrésistiblement」や「La Maritza」など70年代前半まで数々の大ヒット曲を提供したジャン・ルナール (Jean Renard) はこう語っている、「Baby CaponeはYé-Yéの香りを残す論理的な続き、しかし進展が必要であったしシルヴィ自身もそれを感じていた。私はメロディーを変化・発展させるためもっと高音で歌えるかとシルヴィに訊くと彼女は頷きました。いわゆる裏声の楽節にその可能性があった。そこで私達は一緒に取り組み彼女は驚くべき達成をしたのです。」 「1968年オランピア劇場公演で彼女は正真正銘のスターになった。シルヴィとは、優しく親切な振る舞い・礼儀正しさ・ダンス・動きの優美な女性らしい身体、そして、熟達していない時もあるのは確かだが彼女にはある明白な本物があった。スラブ人である真実や何か深いものがある。空々しいものではない、法螺で物事は動かない。それは、彼女を特異な存在にしている彼女独特のあのハスキー・ヴォイス。彼女は多彩な面を持つダイアモンドでした、彼女はそれを1968年オランピア劇場公演で表明したのです。」[8], 1968-1969年はイタリアでも「Irrésistiblemente」「Come un ragazzo(男の子のように)」そして「Zum zum zum」が大ヒットし人気絶頂、国営テレビRAIで3ヶ月間の主演音楽番組「Doppia Coppia」を持った。70年1月にはイタリア語盤「Abracadabra」と「La Maritza」発売。「Buonasera buonacera」「Blam blam blam」「Nostalgia」など堪能なイタリア語で多数レコード録音した。, レパートリーはロックからジャズ、R&B、ラテン、バラードまで幅広くダイナミックなライブ・ステージが本領と言われる。契機となったのは、1970年ニューヨークでの「ポップ・ロックそしてとてもソウルなジャズ・ベースでもって ≪最新で≫ 革新的な動きについて並はずれたテクニックを持っていた」アバンギャルドな黒人ダンサー、ジョジョ・スミス (Jojo Smith) のダンス・スタジオ通い。この体験は2月の2度目の自動車事故の1週間後に残る傷痕の治療のため訪れた音楽の街で深く傷心のシルヴィの心身に新たな力を注ぐものとなる。「自分の公演に身体的な広がりや深さを取り入れてより完璧な一人のアーティストでありたい」と考えていた。その年の大半ニューヨークに滞在。クラシック・バレエとは違ったスミスの新しい逞しい踊りに触発され、同年1970年9月のオランピア劇場公演を構想する。当時のフランスでは画期的となったモダン・ダンスを取り入れた本パリ公演、振付・演出はジョジョ・スミス。ゴスペル・R&B・ソウル・ポップが渾然一体となった若いヴォーカル・グループ、ボイズ・オブ・イースト・ハーレム (the Voices of East Harlem) の面々を連れスミス本人も出演した「SYLVIE A L'OLYMPIA 70」(同年10月発売)はキャリアのターニングポイントとなる。このブルーのライヴ・アルバムのジャケット写真にはシルヴィのバックで歌い踊るスミスやボイズ・オブ・イースト・ハーレムの姿がある。本公演のためフィリップ・ラブロ (Philippe Labro) と兄エディ・ヴァルタンは「La nuit(夜)」を製作。ギターと「Bad moon rising」で幕開け、「Love or let me be lonely」のバレエ、そしてスミス一座とボイズオブ・イースト・ハーレムが登場する「Let the Sunshine In」「Love, Peace & Freedom」でフィナーレとなる。会場にはブリジット・バルドー、N・ドロン、バルバラ、フランソワーズ・アルディ、ルイ・アラゴンらが姿を見せた。シルヴィは、ボイズ・オブ・イースト・ハーレムについてはニューヨークでスミスに連れられてハーレムのアポロ・シアターで感動的なジャッキー・ウィルソンの公演を見た日と同様、街の通りで演じる彼等を初めて見た日を鮮明に覚えているという。, この1970年2月の(助手席に乗っての)自動車事故からの復帰公演となりキャリアのターニングポイントと言われる記念碑的オランピア劇場公演は、同年12月に後年ファンの間で伝説となるポートレート・ドキュメンタリー番組「Sylvissima」(シルヴィシマ/スィルヴィスィマ)でTV放映される。当時のフランスで≪画期的≫と言われたモダンダンスを取り入れたロックな本スペクタクルに向けたニューヨークとパリでのリハーサル風景と公演模様の2部構成。公演後の楽屋でフィナーレのジーンズ姿のまま壁を背に座りこみブーツを脱ぎ棄ててステージの幕引きに対する不満を吐き出して塞ぎ込み両手で顔を覆って泣く姿など本公演に掛ける26歳を迎えたばかりの若きエンターテイナー・シルヴィ・ヴァルタンの横顔。本オランピア劇場公演の後、監督フランソワ・レシャンバックの1972年ドキュメンタリー・フィルム「Mon amie Sylvie(モナミ・シルヴィ)」は1971年から1972年オランピア劇場公演迄カリフォルニアから南米を旅するアーティストの公私の姿を収録。YSLのラメのジャンプスーツで「Shaft」を踊った1972年の同劇場公演後は大ホールに場所を移し、1975年から1983年はパレ・デ・コングレ (Palais des Congrès) やパレ・デ・スポール (Palais des Sports) にて、ショウアップされた長期に亘るスペクタクルを興行。, 1970年7月、ニューヨーク録音の「Aime-moi(愛の経験)」そして「Les Hommes(悲しみの兵士)」、「Abracadabra」など収録のアルバム「Aime-moi」発表。1971年12月に兄エディ・ヴァルタン、バンドのトミー・ブラウンやミッキー・ジョーンズ等の作品をロンドンの名スタジオOlympic Sound Studiosで録音したシルヴィ・ヴァルタンの代表作に挙げられている「Sympathie」(日本盤「哀しみのシンフォニー」)発表。「Suzan(スーザン)」「Annabel(アナベル)」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」「Riche(愛に生きる私)」「California(カリフォルニア)」「Parle-moi de ta vie(あなたのことを教えて)」「Comme un arbre arraché(はり倒された木のように)」など全11曲。日本では、12月末日にイタリアで録音され現地発売された「Caro Mozart(哀しみのシンフォニー)」(イタリア語)を追加収録し翌1972年発売。本作はモーツァルト交響曲第40番ト短調K550第一楽章アレグロをモチーフにPaolo Dossena, Francesco Valgrandeがポップ調にアレンジ製作したもの。, 1972年9月オランピア劇場公演。亡き父親(1970年7月逝去)へのオマージュ「Mon père(モン・ペール)」を発表し本公演で歌う。この72年公演はロサンゼルスにアパルトマンを借り一人息子ダヴィドや母親を呼び寄せてショウ準備に励む。振付・舞台演出のハワード・ジェフレー (Howard Jeffrey) とリハーサルを行う。ショウの主作品であるシルヴィお気に入りのアイザック・ヘイズの「SHAFT」に乗せて男性ダンサー達と踊る。新曲「Mon père(モン・ペール)」、「Medley (Rock 'n' Roll music – Never been to Spain – Proud Mary)」、「A song for you」(Leon Russell レオン・ラッセル1970年作品)、クラシック・シャンソン「Ne me quitte pas(行かないで)」(ジャック・ブレル)などプログラムは様々なスタイルだが、それはシルヴィの意図する構成だった。シルヴィの興味は特定の音楽カテゴリーより音楽全体。本オランピア公演プログラムも「其々が当時の自分自身の状態と好みに合ったものだ」。1973年「Non je ne suis plus la même(愛のかたち)」大ヒット。, 1973年6月『サリュ・レ・コパン』誌のシルヴィの言葉「私はミュージック・ホールに恋している。私は一歌手だと思っていない、大ヒット曲が沢山ある歌手ではないしそれを望んでもいない。ヒット・パレードの思いのままになるような事には怯えるだろう。私はステージで一連の多彩な要素を見せたい。私の公演にやって来る観客は歌だけを期待してはいない、多面的なスペクタクルを心待ちにしている。」, 1975年秋、フランス国内サマー・ツアーの後に1ヶ月間のパレ・デ・コングレ・ド・パリ初公演に臨む。振付・舞台演出ウォルター・ペインター (Walter Painter)。大勢のダンサーを従えた大掛かりな本公演は翌1976年2月と12月に追加がされた。オープニングとフィナーレは「Toute ma vie」(Osmond BrothersのLove meのカバー)。隣国イタリアでは国営TVでシリーズ・ショウ番組「Punto e Basta」を持つ。1976年に「L'amour c'est comme les bateaux(愛の小舟)」、「Qu'est-ce qui fait pleurer les blondes ?(そよ風のブロンド)」が大ヒット。, 1977年秋、パレ・デ・コングレに戻る。ボブ・マッキーの斬新な豹柄衣裳を纏った写真家ヘルムート・ニュートンによる公演ポスターとライヴ・アルバムのジャケットも話題を呼ぶ。パリの街頭の各所に約2m四方のその公演ポスターが連なって貼られる。振付・演出クロード・トンプソン (Claude Thompson)。アンディスピュテッド・トゥルース(The Undisputed Truth)、サイケデリック・ソウル・ファンクグループのYou+Me=Loveに乗せて赤い衣装で踊るバレー、豹柄衣裳で熱唱する「Ne pars pas comme ça」(同年にアメリカ・グラミー賞R&B女性シンガー賞を受賞したThelma Houstonの「Don't Leave Me This Way」のカバー)、そして白の衣装で広いステージを縦横に歌い踊る実兄エディ・ヴァルタン (Eddie Vartan) 作曲「Dancing star(ダンスィング・スター)」のフィナーレなど見せ場の多い1ヶ月に亘る本公演は翌1978年3月20日から4月2日まで2週間の追加となる。観客の中にはモナコ王室のプリンス・プリンセスの姿も。またパリに居合せたミック・ジャガーも来場し楽屋も訪問した。1978年「Disco queen(ディスコ・クイーン)」、1979年12月には「Nicolas(初恋のニコラ)」が大ヒットし年末の『Paris Match』誌の表紙を飾る。, 翌1980年は特異な新曲「La chanson au brouillon」 で無邪気な子供達への眼差しを歌っている。私生活では一人息子ダヴィドが13歳である。年末から1981年3月ロサンゼルスに留まり2年前にサインしていた初冬からのパレ・デ・スポール・ド・パリ (Palais des Sports de Paris) 公演の準備に入る。3月下旬に来日し第10回東京音楽祭に審査員として出席。夏に「L'amour c'est comme une cigarette(愛はジダンの香り)」(Morning trainのフランス語カバー)がメガ・ヒットし、11月に長期間のパレ・デ・スポール初公演に臨む。振付・舞台演出Claude Thompson。ボブ・マッキー作シースルーの衣装で自ら演じたSYLVIEの文字がポスターとなった6週間スペクタクル、「Nicolas(初恋のニコラ)」のアンコール・シーン。会場にはタキシード姿のジョニーと息子ダヴィド、またカトリーヌ・ドヌーブ、ジャック・ドゥミ、ジョージ・チャキリス、アンドレ・テシネ、ロマン・ポランスキー、ナタリー・バイなど映画界からも多数訪れた。翌1982年1月初旬最終日を迎えるや直ぐに6週間のスイス・ベルギーを含む冬期ツアーに出発、8月に1ヶ月の国内サマー・ツアー、そして12月ラスヴェガスのMGMグランドホテルへと続く。, 1983年パレ・デ・コングレに戻りショウを開催。振付・舞台演出Claude Thompson。本公演は9月10日から11月20日まで11週間ノン・ストップというロング・ランで25万人を動員。休む間もなく11月28日から3週間の国内ツアーへ。翌1984年6月初旬に再婚後もロサンゼルスやアトランティック・シティで劇場公演をし夏にはフランス国内サマー・ツアー。

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